『パンとバスと2度目のハツコイ』は主人公が山中さわおになろうとする話
とりあえずその振り上げた拳を下ろしてほしい。君が「深川麻衣ちゃんをよくわからんバンドのフロントマンと一緒にすんな死ね」の人なのか「さわおさんをよくわからんアイドルグループの小娘と一緒にすんな死ね」の人なのかは置いておくとして、こう思ったのにはきちんとした理由がある。
無論、タイトルの主張は深川麻衣さんがアウイェーアウイェー連呼する顎のしゃくれたおじさんになるという意味ではなく、この映画の中で主人公がソングライターとしての山中さわおの精神性に一歩歩み寄ろうとしているのではないかという話です。私は限界オタクなのですぐ好きなものと好きなものを繋げる話をする。
まずソングライターとしての山中さわおについて触れたい。
山中 さわお(やまなか さわお、本名: 山中 沢男(読み同じ)、1968年12月7日 - )は、日本のシンガーソングライター。オルタナティヴ・ロックバンド、the pillowsのリーダーであり、ボーカルとギターを担当。
the pillowsの楽曲を聞いたことのある人なら承知のことと思うが、山中さわおは決して自信に満ち溢れた歌詞を書くタイプのソングライターではない。彼の歌の中に登場する「僕」は社会からつまはじきにされ、疎外されるアウトサイダーであり、誰からも理解されない孤独な存在である。
そしていわゆる第3期*1初頭におけるthe pillowsの楽曲においては、孤独に対するある種の捨て鉢な姿勢が見受けられる。
「絶望的な甘い約束は 想像通りの痛みで失った」
「nowhere 沈み続けて 深海魚のように 潰れていたいんだ
ねえどうしてなんだろう Ah 何にも欲しくない」
Nowhere/the pillows
ここでは「絶望的な甘い約束」は実現しないものとして扱われ、「僕」はそれをもはや求めていないことがわかる。望むのは「深海魚のように潰れ」ることであり、その他は「何にも欲しくない」のである。
ところが、the pillowsが第三期のスタイルを確立していくにつれ、その楽曲には明らかな変化が見受けられるようになる。
「最上級に手を伸ばして 痛い目を見たって
Maybe I'm gonna be a free bee now 怖くなくなった」
Freebee Honey/the pillows
先に見た通り、山中さわおは最初から恐れず「最上級に手を伸ばして」いたわけではない。自己のスタイルを確立し、徐々に理解者が増えていくにつれ、「怖くなくなった」のである。
しかしながら、これは「僕」の社会における地位が上昇したことを意味しない。「僕」は変わらずアウトサイダーであり、社会から迫害され続ける。それでも、山中さわおは光へ手を伸ばすことを諦めない。これは単なる楽観視とは明確に異なる。自らが求めているものが「絶望的な甘い約束」であることを自覚しつつもそれを志向することが現在における彼の特質であるといえよう。
「かけがえのない 夢を知っちゃって
もう絶対 ごまかせないんだ 寝ても覚めても繰り返す I・C・A・N」
I think I can/the pillows
「触れたら無くなりそうな夢を見て それでも手を伸ばし続けてる
一欠片さえも残さないで 砕けた僕は風になるだけ」
New Animal/the pillows
次にこの映画の主人公であるふみについて触れたい。
ふみにとっての「絶望的な約束」はいわゆる「永遠の愛」である*2。相手の愛情と自分の愛情、どちらの永続性も確信が持てず、確信が持てないものを掴みに行く気もないふみは、愛情のために行動を左右される人たち*3が不思議でならない(ふみは「本当は永遠の愛が欲しい」人物ではなく、そもそもそんなものを欲しがらない人物として造形されている)。
そもそも、彼女の長期的目標に対する感性が鈍感であることは緑内障の目薬を差し忘れるシーンでも示唆されている。「いつかくる失明」は彼女にとって大事ではないのである。
ふみは再会したたもつに惹かれていくが、彼に投げかける言葉は「私のこと好きにならないで」である。彼女にとって相思相愛は終わりの始まりであり、愛情が続くのは「片思いだから」なのである。
ところが、ラストシーンではふみの心境に変化が訪れる(ここまではふみとたもつがとことん噛み合わないことが強調されていたにも関わらず!)。「その魅力の本質を知っても憧れ続けることができたなら」…こうして、この映画はここで終わるしかないというまさに最高のタイミングで幕を閉じる。
ふみの心情の変遷は山中さわおのそれと極めて近いものではないだろうか。ふみが「永遠の愛」の存在に懐疑的なことは物語を通して変化がない。しかし、ふみはそこに至る一筋の細い道を見出す。最終的にたもつとの関係がどうなるかはわからない。たもつはやはり元妻が忘れられないかもしれないし、ふみはまたコインランドリーに逆戻りするかもしれない(たもつと付き合っても「たまには来る」んだろうけど)。しかし、道は示されてしまった。自分がバッターボックスに立っていることに気づいてしまったのである。これから「バットを振る」*4かどうかは彼女次第である*5。
こう解釈したとき、判断に困るのがもう一人の主人公であるたもつの存在である。たもつは明らかにふみと対比する存在として描かれており、浮気して逃げた元奥さんのことを未だに思い続ける人物として登場する。このことから、たもつの人物像を「ずっと一人の人を思い続けることに対し楽観的な人物であり、ふみとは明確に異なるパーソナリティを有する」と読むのが素直な読み方ではあろう。
しかし、どうもたもつがそこまで単純な人物であるかについて違和感を拭えないでいる。仮にたもつが上記のような人物であれば、永久の愛を誓いあった元妻が浮気をするという事態は彼の人生観の中ではあり得ない出来事のはずである。にもかかわらず、たもつはこの事実に対して一貫して極めて淡白な反応しか示さない(自分は奥さんを追いかけて住まいも仕事も変えているのに、である)。
ここから、物語開始時点で、たもつはラストシーンでふみが至った境地に既に至っていたのではないかという読み方が可能になる。「絶望的な甘い約束」であることにはあくまで自覚的でありつつも、それを追い求める人。丘でのシーンはその約束に精一杯区切りをつけた、優しすぎる男の姿に思える。
ここまで書いて思ったけど、これつまりこの映画は過去の山中さわおと現在の山中さわおが恋愛する映画ってこと?あまりにも限界すぎる結論では?やっぱ今までのナシでいいですか?
自分の中にはふみ的な面もたもつ的な面もあると思うので、見ている途中は自分がスクリーンの中で分裂しているような気がして大変妙な気分だったのですが、最終的な感想はこんな感じになりました。「モヤキュン」という宣伝がされてましたけどいうほどモヤではないよね。ラストシーンのあの一言がなかったらモヤですけど…。
あ、後バイセクの友達についてはあまりにも人間が完成されすぎてて書くことがありませんでした。噛み合わない二人の潤滑油として登場させた感が強いですね。全然自然だったけどね。
「こじらせた」人やピロウズファンの人は何かしら思うところがある映画ではないでしょうか。映画館で自意識が複雑骨折しても責任は取れませんが…。
*1:the pillowsの活動の歴史は大きく分けて第1期〜第4期に区分されており、the pillows本人たちもこの区別には自覚的である。
*2:恋人のプロポーズを断る理由を想起せよ
*3:ex.パン屋の同僚の不倫相手の奥さん
*4:訓練されたアニメオタクはここでフリクリを思い出さなければならない。ナオ太がバットを振ったところで、マミ美は自分には靡かないし、兄貴は帰ってこないし、ハルコさんは宇宙へ行ってしまうのであるが、それはバットを振らない理由にはならないのである
*5:制作陣の間でも意見が割れているらしい。いい映画だなあと思う